自分の考えに則ると、世の中には多くのナンセンスが存在するようです。
その全体に少しづつ触れて行こうと思っていますが、今日はその内の一つについてちょこっと書いてみます。
内容は凄く簡単です。拍子抜けさせてしまう恐れすらあります。苦笑。
本文は、以下です。
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僕らは、人と接する時、
”もし、自分が相手の立場だったら”
という事を常に考えて接するよう心掛けましょう!
と、教わって来ました。
”思い遣り”の話ですね。
僕は、今まで、この事に関して、何の疑いも無くそういうものと信じて生きておりました。
しかし、ここに来て、これはどうやら間違った教えだという事に気付きました。
歳を重ねるごとに、着実と強固なものになって行く自分の考え方は、面白いくらい、世で通っている通念とはかけ離れて行きます。
一言で、その対比を表現するなれば、
僕の考え方が”より自由であろう”とするのに対し、世で通っている常識やルールには、些かの不自由さが感じられます。
そして、全体、僕の言う自由とは、主に個々人の精神的な自由を指し、それを手に入れるためには、一度孤独というものを飼い慣らす必要があるようです。それも悪い事に、10年単位くらいの長い時間を要するようなのです。
いえ、必要なのは孤独だけでは無いようです。
まぁ、その辺は別項にて。
話が逸れてしまいました。
いやはや、失敬。うっふん!!
(↑気取るな、一成)
なんのお話でしたか………
あー、そうでした。
例えば僕の場合、そもそも考え方の尺度が周りの方々とは180度近く違えているために、人と接する際に相手に自分を当てはめて忖度してしまっては、これはもうドえらい事になります。
誰しも人と人とは、考え方も器の大きさも違います。なので、相手に自分を当てはめて考えるのではなく、その人単体をしっかりと見極めて物を言わねばならないのです。
でないと、痛い目に合います。
僕の場合、かなりの度合で廉恥やプライドに反応するセンサーがイカれてしまっているので、その尺度で相手に接すると、アリの群れを踏み潰すかのように、悉く面子を潰してしまう、もしくは酷く傷付けてしまうようなのです。
これには、ただただ参りました。
”自分が相手だったら”なんて考え方、見事に見当違いじゃないか!!!おかけで大敗を喫したぞ!!!
違います。
”一人一人を見つめ”なければならないのです。
相手の考え方、器、性別、その他諸々の情報の全てを考慮に入れて接する必要があります。
あー、僕にはまだまだ他人が見えてないなー。
もっともっと成長したいなー。
(あれっ、話の結びに手抜いてる?
・・・・・・
いえ、もう書きたい事は一通り書きました)