この土地に住み着いて3年程になるだろうか。僕の今の住まいの直ぐ下には、こじんまりとしたイタリア料理がある。いや、”ある”ではなく”あった”が正しい。
そこには、性格頑固で一風味の付いたシェフがいた。年齢は間も無く60にもなろうとする、この道40年以上のベテランだ。
僕とシェフとの出逢いは、やはり3〜4年前に遡る。
現住居に入る際の挨拶で顔を出した時、
「おー!?何っ処かで見覚えのある顔だなぁ〜。」
↪︎いや、一度客で来てるんすよ。
「おぉ、そぅだったかー。」
ってのが、まぁ言って見れば僕らの交際の始まりだった。
一昔前には5人で切り盛りしていたというその厨房も、僕の知る頃には、シェフ1人で料理と提供をこなすようになっていた。365日、特別の日を除いては、毎日店を開け続けて来たという。
「おまえ、たまに顔だせよー。」
なんて言いながら、僕に皿洗いをさせてくれるのだった。時折、ビールやワインもご一緒させて貰った。
そんな時間の合間に、色々な話をした。
「おまえ、お母さんを悲しませんじゃねーぞぉー。それだけだよ、俺が言いたいのはー。」
「人間はな、やぁっぱり”気持ち”なんだよな、気持ち!」
「音楽なんて食っていけんのかー?料理やれよ、料理っ!俺が全部教えてやるよ。
いやな、俺はお前の歩き方がスキなんだよぉ。違ぇーよなー。」
「俺はな、小学の頃には働きに出てたんだ。肉を切るためにアメリカで修行した。23歳で調理長をやったんだ。それでよ、一年に一度実家に帰って、ベーーン!!と100万叩きつけんだ。お前もそうなんなくちゃダメだぞー。」
いくつものシェフの素敵な話や表情が、今も僕の中に大切に保管されている。
また、シェフは酒とタバコが人生である、と言ってもいい程で、ランチが終わるとウイスキーをチョビチョビと飲み始まるらしかった。無論、これからディナーも始まろうというのに、そんなのは一向御構い無しといった威勢があった。それでいて、ちゃんと仕事をこなすからカッコいい。
そんなシェフが、腰の痛みと食欲減衰を訴え始めて間も無くだったーーお店に姿が見えなくなったのは。
携帯電話も持たない方であったため、手短な連絡手段が無かった。
僕の憶測では、入院されているか、もしくわ実家に戻ってらっしゃるか、と見当を付けていた。
タイミングを見て、その確認と対応のための行動をとるつもりであったが、同時期に始めた二つのバイトがためにほとんど落ち着いた時間も取れず、一週間、二週間とその事を先送りにしてしまうのだった。
そして、そんなある晩、バイト終わりの疲れた体を全く別の作業に当てていた際、ふと、なんの前触れも無く、そのシェフの事が強く頭に浮かんで来た。次の瞬間、僕は迷う事なくシェフの安否を知る人に確認のLINEを入れていた。間も無くその返事の電話がかかって来た。
「一成君、Sシェフはね、死んだよ。丁度昨晩だ。」
衝撃だったのは言うまでもない…。
あっけなかった…。
挨拶も出来なかった…。
この時、”はっ”っと僕の脳裏にシェフが浮かんだのも、きっと本人が挨拶にいらしたんだろうと思った。
こういう事は、それ前にも幾度か経験している。
実際にそういう事があるらしい。
話を聞くと、病院でも先生の指示に背いて酒とタバコを辞めなかったため、一度は病棟を追い出されもしたらしい。シェフらしい。
でも、想像通りだ。死ぬまで、そのスタンスは変わらなかったんだなぁ。
僕は、何らかの縁で出逢ったこのシェフの背中を見て、何か大切な事を教わったような気がしている。
殊に、いつなん時でも自分というものをこだわり抜く点、まさに職人だった。
シェフとの日々は、僕に強烈な印象を残した。これからの人生を送る上で、間違いなく大きな力になるだろう。
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この原稿を書き上げた早い朝の窓辺の静けさに、一枚の枯葉がひっそりと落下していった…。
シェフ、休みなく動かして来たその身体を今こそお休め下さい。お世話になりました。
またいづれお会いしましょう。