世の中には、あらゆる商品やサービスが溢れている。
それらは人に何らかの価値を提供するものであり、人が人として生きてゆくための必要を日々満たしてくれている。
空気や太陽光、水などといった根源的な資源を除けば、僕らの社会は全てこの相互作用の価値提供で構築されているといって間違いはないだろう。
僕らが幼い頃には、これらの全てが人間の営みによって生み出されているものであるという事実を理解していなかった。
現在の僕自身も、まだまだその本質を追求している最中である。そして、ほんの少しづつではあるが、年々見える物が広がっているのを何とは無しに楽しんでいる。
ところで皆さんは、これらの価値提供というものの本質を探った事はあるだろうか。
現代の社会では、人と人が価値の受け渡しをするのに一番都合の良い媒体として”お金”を使用する。これは、ある国やある地域に置いて統一された基準値が設定されていて、僕らはその基準に基づいて遣り取りを履行すればいいだけなので、至極扱い勝手がいい。
このお金の”そもそも論”になるが、
その昔――人間の社会という概念が生まれる頃、
あるものは川の周辺に生息地を築き、魚を獲った。
そして、又、或る者は山の周辺に生息地を築き、猪を獲った。
ある時、僕のようにバカで気儘な奴が、群れを抜け出して、長い散策に出掛けた。
すると、そこには見た事も無いような世界が広がっており、巨人がいたり、言葉を喋れる猿がいたり、......
おい、おい、待て!話が逸れた。違うぞ、一成!
要は、
ある時、何らかの手段で、自分等とは異なる知恵や産物を保持する他者と出会うわけだ。
この時、それぞれの持つ産物を物々交換する、もしくわ、それぞれの持つ知恵や技術を提供し合う、などといった謂わばコミュニティーが必然的に生じる。
更には、この所謂”価値”やそれを扱う”手段”が多様化してゆく中で、人々はその扱いに限界を感じるようになる。
ここで、更なる利便性を追求した結果、現代で言う”お金”というものを共通のツールとして取り扱うようになる。
まぁ、端折って言えばこんなところ。
で、今回の記事で僕が触れたい事ってのは、ここからで、
そもそも、僕らがそういった価値を遣り取りしているのって、必ずしもお金を介在させてるものばかりじゃないよね、って話。
まぁ、お金を介在させようが、させまいが、行き着くところは同じなんだけどさ、――今回言いたい事に限っては。。。
皆さ、自分が価値を感じるものって、一体なんだろう?
それは、”自分には無い何か”だと思うんだ!
例えば、
一成は、音楽を生み出すのは朝飯前だけど、
でも、
「じゃレコーディングしよう!」
ってなった時に、
「あれっ!?ちょっと待てよ!?
俺には演奏技術がねーぞ・・・!?!?
DAWの扱い方分かんねーぞ・・・。。。」
ってなるよねェ。
じゃあ、
「どうしよー!?」
ふむふむ、
そうか、、、!
世の中には、その一成には無い知識や技術を持った人達がいるんだよな。
この時、これらレコーディング時の技を持った人は、一成にとって、めちゃくちゃ重宝せらるる”価値”になるわけだ。
つまり、
”自分には無い何か”。
これ、一段階だけ巨視的視野で言うと、
”人には無い何か”。
これが、希少であればあるほど、その価値は増大する。
そして、実は、誰しもが何らかの価値を有している。
そう、全ての物には必ず価値がある。
例えば、
多くの人が嫌う雨日和。――あぁ、一成は嫌いじゃないけどね。
雨には、価値が無いか?
いや、雨の日に草花は潤う。
雨の日に花粉症の人がホッとする(笑)。
一成は、雨に涙を洗った過去もある(苦笑)。
もしかすると、雨のせいで身軽な動きを遮られた仕事人が、この時とばかり知恵を絞る、その潤滑油になるのかもしれぬ。
要は、使い方だ。
それには、まず、自分を知る事だ。
自分は何が得意で何が苦手なのか。
何を持っていて、何を持っていないのか。
そして又、このようにして自分を見つめれば見つめる程、
他者の価値にもセンサーが働くようになる。
そこからだな、全ての始まりは!!
ちなみに、一成の周りは、物凄い価値を持った人で溢れかえっている。
僕は、それらの人達から技を盗もうと日々見つめている。
ところが、畢竟大抵のものは真似る事が出来ても、盗み切る事は出来ないから、やっぱり手を結ぶ。
共存だ。
依存ではなく、共存だ。
面白ェ~んだ、これが。
――・――・――
あの、すみません。
本題、と言って置いて、結局これ全部前置きです。
今回の前置きでは、”価値”の話をした。
「唯一にして無二の価値たれ!」
って事。
えー。
あの、、、。
また、次回、本題に入ります。
宜しくお願いします。
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