• We pursue a creative activity!!!



    ここにある例え話があります。

    ある象が、生後間も無くして鎖に繋がれました。
    それは、もちろん人々の観賞用としての飼育が目的だったからであります。
    鎖の一方は象の首に、
    もう片方は地面に打ち付けた杭に繋がれました。


    そのまま1年、3年、10年と月日は経ち、この象もいつしか大人の仲間入りを果たしていました。


    ここまで成長してくると、象の力は人間の想像を軽く超える程の威力となり、一般に言われる動物の強度格付けランキングに置いてもトップに君臨するのだそうです。トラやカバを始め、サイやクマの力を持ってしても、やはり象には及ばぬのだそうです。


    この事例からも分かるように、先述した成人後の象ともあれば、地面に打ち付けてある杭など朝飯前のストレッチの流れでひょいと抜いてしまいそうなもんですがーーいや、実際、難無く抜けるのでありますが、生まれてこの方一度たりとも自分に繋げられた杭の外された瞬間に遭遇しなかったため、そもそも自分に繋げられた鎖が外れる事の可能性など発想にも付かぬのだそうであります。
    ーー殊によると、この象が「不自由な生活を強いられている」という認識は、人間の勝手な傲慢さなのかもしれません。当の象にとってみれば、「これ以外の自由が存在する」という認識さえ持たぬのかもしれませんね。ーー


    つまり、この問題は力学的なものでは無く、囚われの身の固定観念によるものなのであります。



    そして、この例え話が示すように、我々も又、生まれ持った時からの風習や習わしに見事に認識の是非を預けてしまっています。

    自分を振り返ってもそうではないでしょうか。
    親の、学校の、社会の、マスメディアの丁寧な教えに対し、殆ど疑問もなく素直に従って来ているはずです。

    それ程、私達に刷り込まれた規律、善悪の判断は他力的な確立に属しているのが実態なのです。



    しかし、皆さんは、それらの先人達の教えの全てが、過去未来永劫変わらぬ真実であると思いますでしょうか?


    私は、そのことに関して"全て”と言い切ってしまうのは些か当時代を生きる者としての自己責任力に欠けるのでは無いかと考えています。




    その昔、日本人にとってアメリカ人は悪以外の何者でもありませんでした。ところが、現代において双方は”Friend”以外の何者でも無いでしょう。たかだか50年で180度の変わりようであります。


    その昔、作曲家チャイコフスキーの時代は同性に恋心をーー本能を向けるだけでも処刑対象になりました。それがどうでしょう、現代では大々的に認められ、一つのメジャリティとして認知され始めています。これらの方々とて、今後50年と経たない内に更なる大衆の認知を得て、自由の翼を遠慮無く広げているでしょう。ーー(ちなみに、この題材についてある学者は次の様に述べています。
    ーー本来だったら、物理的に潤滑な生殖能力を持たないが為に、地球が年月を刻むと共に淘汰されてもおかしくはなかったのにも関わらず、それでも一定の割合で生存して来た事実からして、おそらくは人類の存続に何らかの多大な価値をもたらしているのではないか。ーー
    この言論は一聴に値します。)ーー




    このように、世の中の流れや在り方は刻一刻と形を変えているのです。

    これらの価値や常識の変遷を挙げようとすれば切りが無いのですが、果たして私達はそういった新しい時代の在り方、時代の大きな流れというものをどれだけ個々の頭が正しく認識しているのでしょうか?いや、認識というよりもクリエイト(創造)と表現するのが適切なのかもしれませんーー日々、己を見つめ、問い質し、未だ見ぬ明日を築き上げて行く事が自分に与えられた”時代を生きる“という事なのでしょうから。ーー。



    実の血を分けた親でさえも、既に自分とは異なる価値観ーー認識に置ける観念の差異が生まれています。


    この解釈は読者の方々にとっては些か以外でしたでしょうか。


    しかし、少なくとも私は、時代の流れと共に遠慮も無く色々なものが変わって行くのを肌感覚で感知しております。


    補足して言いますと、この”差異”は決して哀しみでは無く、自然の流れでもあり、可能性でもあります。手を取り合って喜んでいいものだと思うのです。





    そして、人々の”認識”といったものは、得てして厄介なものであります。
    何らの個人的見解を持たぬ幼少期から、当たり前の様に刷り込まされて来た”それ”は、一度脳内で”正しい”もしくわ”真実”として認識すると、そこからの視点のみを軸とし基準としてしまい、すなわちそれらは視野の狭さにも繋がります。

    これを脱却する為には、現代をリアルに生きる個人が、その”リアル”を肌感覚で感知しながら、同時に歴史の流れやあらゆる人物の見解に一度は分け隔てなく接してみるのがいいかと思います。



    そして、今まで言われて来た事、或いは周りが自信ありげに言い切っている事に対して、許容の目と同時に、一度は疑いの目をも兼備させて臨んでみるといいのかとも思います。

    つまりは、
    学び続ける事を忘れずに、
    自分の頭でしっかりと考え、
    自分なりの答えを導き出す事に、
    これからの新時代を築き上げる喜びと可能性があるのではないでしょうか。




    さぁ、明日からの世界をクリエイトして行くのは、現代の真っ只中にいる私達です!


    失敗の連続でいい!


    遠慮無く突き進もう!






    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。

    %d人のブロガーが「いいね」をつけました。