ある人は、
「友人なんて作るな」
と言う。
限りある時間を自己開発や投資に使えと。
そして、又ある人は、
「どんどん人に会え」
と言う。
“自分”という人間を躾けてくれるのは、いつも他人だ。
僕は思う。
世の中に、この二つをバランス良く両立させる人があるのも良し。
反対に、片一方に片寄る人があるのも良し。
それらが、ある一定の時期に依存するのでもいいだろう。
これをグラデーションという。
様々な色があってこそ面白い。
しかしながら、
いづれを選択するにせよ、その先には然るべく目的がある方が、少なくとも、人生をコントロールするという意味では優位に立てるのには違いない。
まず、人に会うのにも、
自分が何者かも分からず、ただただ寂しさや詰まらなさを埋めるために時間だけを浪費するという事であるならば、
それを無駄とは言わないが、あまり有意義な時間にはならないと言わざるを得ない。
“自分”という確としたアイデンティティがあるからこそ、人と過ごす時間に”幅”や”ダイナミクス”といった潤いが生まれる。
それらは、互いを高め合う可能性である。
そして、
そのアイデンティティというものを確立するにあたって、
やはり、自分一人で過ごす膨大な時間を設けなければならないのもまた事実だ。
“人は生まれながらに個性を持つ”
という見解も否定しはしないが、
やはり、その個性の芽を攻玉開花せしめるのは、自我忘却の上で取り組み会得した才能や技術だ。
と、ここまで考えて来ると、
果たして自分は今何に取り組んだらいいのだろうかと、一種のジレンマに陥る危険性もある。
事実、僕は事あるごとにそのジレンマに陥って来た。
その度に、僕はあたかも二重人格者なのではないかと自分を疑ったものだ。
そして、それは地に足のつかない、何か不安定さを感ずるものであった。これ程、自分が迷いに溺れた事はない。
しかし、今こうして冷静に振り返って見ると、
自分が自分であり、時間さえも忘れて何かに取り組んでいた時は、”秒”を惜しんでやりたい事に夢中になっていた。
そこに、難しい思考などは一切なく、ただただ目の前の事に夢中になったものだ。
その瞬間は、一切の迷いがない。
逆を言えば、
今取り組むべき事が明瞭にならず迷いの中にあるという事は、没頭すべきタイミングではない、という事になる。
そういう時期は、明瞭にならない思考に対して、あまり勝負を挑まないのが一番だ。
温泉に行って見るもよし、
女の尻を追っかけてみるもよし、
旧友に会いに行ってみるでもいい、
手持ち無沙汰にベットに潜り切り、というのも美徳ではないだろうか。
そうこうしている内に、自然とエネルギーも蓄積してくるかもしれない。
もう一つ、
僕の経験上、この種のジレンマに陥る原因の一つに、
“他人との比較”
という厄介なものがある。
周りが結婚して行く、
友人がもう経理部長をやっている、
起業して上手く行ってる奴もいれば、
俳優デビューした奴までいる、
第一線で活躍するピアニストもいれば、
あぁ、この枚挙には切りがない。
兎に角、周りにはスゲェー奴等が溢れ返っている。
このように、僕らは常に周りと自分を比較してしまう。
「人と自分を比較するな!」
と、いくら言葉で言われても、それは至極ご無理な注文だ。
何故なら、僕らは常に社会との関わりの中で自己という呼吸を紡いでいるのだから。
生きて行かねばならないという、現実的なしがらみが、時には僕らの足枷ともなり得るのだ。
こういった、同世代の活動を自身の中で上手く咀嚼し切れない間は、今まで誰よりも早く動いていたつもりの自分が信じられなくなるなんて事もあるかもしれない。
しかし、時間を上手く使ってこれらを自分なりの形に解釈すると、むしろこれが一つのチャンスに変わる。
つまり、
何かに没頭している時期は、兎に角周りの事が目に入らない。
視野が極端に狭くなっている。
そして、それが一段落付いて周りの活動が視界に入って来た時、それは自分自身を見直すチャンスになる。活動方法を大きく転換するタイミングだ。
このようにして、周りの人間との関わりを事あるごとに、自身を見直す鏡に転換して行く事は、一つの賢い技だ。自分を見失わないためにも、他人とのコンスタントな遣り取りを大切にしたい。
まぁ、
「自分一人で何かに没頭する時間の必要」
と、
「他人との関わりから学びを得て行く時間の必要」
とを述べて来たが、
思えば、僕は今まで本当に不器用な生き方をして来た。
二つ以上の物事をバランス良く熟すという芸当がご無理なのである。
頭の保存容量が一箇所しかないのだ。
それは、多くのバイトを熟して来ても熟慮し得た自分の事実だ。
僕は、徹底的な男性的脳の構造を持しており、
一点の獲物に集中して、
その代わり、それを決して逃しはしない力を持っている。
この事実は、僕の強みであると同時に最大の弱点でもある。
僕としては、この素材を理解した上で、今後それをどのように活用して行くかに、僕の人生の明暗が別れるのだろうと思っている。
話を戻そう。
つまり、畢竟、
人生の時間配分を自身で恣意的にコントロールする必要などないのだ。
刺激を求めて、何かに夢中になるように生きていれば、自然と”技”は身につくものだ。
同時に、人との関わりも、生きてる上で避けては通れないものだ。
それから、結論の部分に入って行くが、
この二つは、掛け算式に僕らのアイデンティティに魅力と幅をもたらしてくれる。
技術ばかりが先行してしまった人間は、得てして行儀が悪いものだ。
逆に、人との関わりばかりに人生を越して来た人間は、自己を魅せる技が欠落してしまう。
まぁ、生きていて、あまり気に留める必要もない事について、つらつらと書き綴って来てしまった感があるが、
いづれにせよ、自分自身を俯瞰の目で眺める、もう一つの自己というものの存在を常に背後に配置しておく能力は、いつの時代を生き抜くためにも必須の技にはなって来るのかもしれない。