いつの頃からだったか、
お金が落ちてたら、躊躇なく頂戴する事にしてる。自分の所に回ってきたんだな、って解釈する(流石に財布は、交番に届けるかな。持ち主が困るだろう)。
その代わり、こちらから回す所は惜しまず回すように心掛けている。
最近、一番身近なところでいうと、
近所に頭の悪そうなお父さんが住んでいて、
仕事をしないんだか、出来ないんだか知らないが、
いつも自販機の釣り銭口を漁ってたり、
要らなくなった服があったら頂戴ね、なんて言って来たりする。
前歯も、なんだか変に曲がっているし、話す言葉も酷く聞き取りづらい。如何にも、”ひもじい”という言葉が似合う方なのだ。
僕は、
少ない持ち金の中から、
一月の内に一、二度財布の中身(小銭の方だけ)を洗濯に出すかのように、そのお父さんにあげてしまっている。
そもそも、電子マネーなるものを享受してしまった我々の世代は、もはや、小銭を持ち歩くという事そのものにナンセンスを感じてしまっている。
持ち歩く際の重さには体力の浪費を感じ、取引の際の計上には時間の浪費を感じざるを得なくなっている。
しかしながら、ちょっとジュースで喉を潤したいと思っても、未だに電子マネー非対応の自販機がある事には辟易させられる。
そこで、どうしても小銭が生まれてしまうからだ。
故に、現ナマと電子マネー(更なる次の時代には仮想通貨なのか?勉強しなきゃ。)の狭間に位置する現代にあって、定期的な小銭の洗濯は我々の身辺を身軽にする事に置いて一役を担う。
身軽になる事で、精神的margin、脳内marginが生まれる。
日々、僕らは新しいもの(知識や感情)を取り入れ、絶え間ない新陳代謝を繰り返す。
その際に、身辺に荷物が過多にあると、それだけで吸収効率が悪くなる。
(性格気質にも寄るだろうが)その事を理解している僕は、常に身辺を綺麗に保つ努力を怠らない。
これは、もはや無意識の内に実践出来る。すなわち、”習慣”に落とし込んでいる。
それは、必ずしもお金だけではない。
知識や思想、愛情などがそれに値する。
日常を生きていると、自分の周りにいる人達が食事をご馳走してくれたり、経験や体験、思想を話してくれたりする。つまり、途方も無い大きな無形の利益を常に僕に与えてくれている。
僕は、人から自分に渡ってくるそれらのものを120%吸収する覚悟で生きている。
だけど、人間の根源的な心理で、貰った分だけ人に返したくなるという、返報性の法則というのがある。
僕は強欲な性分で、
死ぬその瞬間まで、徹底的に成長したいという止まない欲求を持している。
同時に、
面白い程、
「人に何かを与えなくちゃ」
という使命のようなものまで併せ持っている。
必要とされれば、持っている全てをガンガン与えたくなる。
考えが少し烏滸がましいかもしれないが、
こんな救いようの無い僕にだって、何か、ちょこっとくらいの価値はあるだろう。
今は、そういった”与える”側の行為に置いて、
お金にすると、たかだか数百円とか数千円の小さな規模でしか歯車を回せはしないが、
いづれ桁の違う施しを出来る人間にならねばと、ほとんど自分との約束のように思っている。
そして、それらのアウトプットをなるべくなら人に有益となる形で発散したい。
だから、自分の生活、夢に向かう費用を換算した上で、可能な限り人に与える事に置いては躊躇を持さない。
それに、どれ程経済状況が苦しくても、前述のようなmarginの無い生き方は、絶えず”自由”を求める僕にとっては窮屈以外の何物でもない。
話を戻すが、
前述のお父さんは、
惰性で仕事をしないのかもしれなく、
又もしかすると、
本当の馬鹿者に類するが故に、仕事をする事の可能性など全く念頭にないのかもしれず、
しかしながら、いづれであっても僕には何ら問題がない。
昔の諺には、
「働かざる者食うべからず」
というのがあるけれど、
今の時代は、もはやこれも通用しなくなって来ているのではないかとさえ思っている。
ひょっとすると、もう少し先の近未来では、食料も安価で大量に創り出せるようになっており、働きたくもない人がわざわざ無理して働かなくても食べて行ける時代になっているのではないか。
ましてや、
何を隠そう、
当の僕なぞは、これまで相当他人様に甘えて生きて来た。
それは、自身の芸術を追求する為に膨大な時間を必要としたからに他ならない。
そうなのだ。
昔から芸術家とは、箆棒な甘えん坊なのだ。
言ってみれば、人間のクズである。
誰かの支援無しには何も出来ないのである。
そのくせ、
その口だけは勝手に動くと見えて、大層な大口を平気で叩く。
自分が世界で唯一の存在であると、とんでもない勘違いを犯している。
もはや救いようのないクズなのである。
ただの恥晒しだ。
僕自身が、そんな人間の出来損ないなのだから、
別に働かずして小金をせびるオヤジがいたとて、目を釣り上げて否定する事もなかろう。
要は、持ちつ持たれつである。
これを忘れた瞬間に人は傲慢になる。
この古今変わらぬ真理を理解しているのとしていないのとでは、人生の味わいに相当の差異が生じて来る。
難しい話ではない。
巡って来るものには、手を広げて素直に喜び、迎い入れよう。
また、可能な範囲でいいから、誰かに自分の持分の一部を分け与えられる時は、キッパリ手放して相手を潤そう。
この新陳代謝が、人生にゆとりとチャンスをもたらす。
出来る事からでいい。
今日、この瞬間から、
小さな人徳を実践してみよう。
汚れた自分の古い殻を脱ぎ去って、洗濯された瞳で明日に臨もう!
そこには、予想だにもしなかった真っ白な世界がーー広野が、拓けているかもしれない。