「おい、おまえ名前何てんだ。」
「料理に興味あるか?」
熱のこもった厨房脇で、大きく重たい皿をただひたすら洗う僕に、そう声を掛けてくれたのは、とあるフランス料理の料理長だった。
そのフランス料理店は、とある地方の一流(まぁ、一流と言っちゃー少々大袈裟だが、その土地では名の通ったホテルには違いない)ホテルの最上階にあった。この時の僕は、この料理長と向こう一年、人生でもおそらくは忘れる事の出来ない程、濃密な時間を過ごす事になろうとは思いも寄らなかった。
まぁ、今よりも給料が上がるし、フランス料理の厨房だなんてなかなか面白そうだし、断る理由もないか。
と思うともなく思った僕は、もう次の週には厨房”中”の皿洗いをしていた。
”中”と、強調したのは、前述している厨房”脇”とは格が違って、一般はなかなか厨房に入る事さえ許されなくて、止む無く入る必要がある時には、
「”〜(何々)”するため、厨房失礼しまーす!」
と、断ってからのそれが認められるのであったくらいだから、そもそも厨房の中に仕事場がある事自体、もうそれだけで羨みの的であったのだ。
初めは、やはり皿洗いから始まった。
こちらの皿洗いも、”脇”に負けず、物凄い量をこなさなくてはならないのだが、その中でも特に印象深かったのは、パイ皿だ。
パイ皿とは、ステンレスで出来た耐熱性のあるもので、半径10センチ強くらいの、縁の少し高くなった、パイ菓子やパイ料理を焼くためのものだ。といっても、この厨房での用途は、既に火の通った料理一般の保温を目的として、それをウォーマー(保熱場所)に入れておく際の受け皿にするのが主だった。
このパイ皿、何が凄いかって、まず量が半端ない。
例えば、ポワソン(魚料理)を作る際、メインの魚に添える副菜(一例:ホタテ、きのこ、ミニトマト、じゃがいものペーストなど)がいくつかあるが、それぞれの火の通るタイミングやお皿に盛るタイミングなどの違いから、全て異なるパイ皿を使う事になる。
お客様1組辺り4、5枚としても、平日の客数の少ない日でも、10組入れば必然的に50枚前後のパイ皿になる。
しかも、シンクに重なるパイ皿は、その一枚一枚に水気による分子間力が働くため、手に取るのにまずコツがいる。更には、食材に寄っては、パイ皿に痕が固まり付いたりもするので、なかなか擦っても綺麗になってくれない。
文句を言えばキリのない曲者のパイ皿君だが、終わりが見えて来た頃には、かえってその達成感から、自分はスーパーヒーローにでも成り代わったかのような精神の高まりさえ感じる極み。
また、あの時付けた握力は、我知らず相当のものだったのかもしれない。
まぁ、そんなこんなで僕の武者修行が始まる事になるのである。
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☆次回に続く☆